ピティナ音楽研究所

2022年度 研究の展望(高橋舞氏)

研究テーマ
演奏様式の変遷および奏法の継承について:「実用版」楽譜と録音資料分析を中心に
概要

 これまでの録音研究[渡辺 2001, Philip 2004, Cook 2014]において、1920年代前後に演奏様式が大きく変化することが明らかになった。しかし、1930年代以降の演奏様式の変遷については、主な先行研究において見解が分かれ 、結論が出ていない。そこで客観的で再現可能な手法を提唱し、その手法を用いた上で、様々な時代の作曲家による多くの作品を分析対象として、1930年代以降の演奏様式の変遷を明らかにする。

 1920年代までの録音資料は1930年代以降と比較して数が限られ、そのことが分析結果に対する客観性を脆弱なものにしていた。各年代の録音資料数をできる限り揃えるために、1910年代から現在までの同じ作品の録音資料を定量的に比較分析するだけでなく、スタンフォード大学やライプツィヒ大学楽器博物館(MIMUL)が所蔵するピアノロールのコレクション等の、様々な作曲家による作品の1920年代までの録音資料を対象に、録音間の類似性を検証する。こうすることで、1920年代までの録音資料の特徴を明確にし、その上で1910年代以降現在までの演奏様式の変遷を客観的に検証する。

 また流派間でどのように演奏が継承されるのか分析する。多くの門下生、演奏家を輩出したチェルニー、リスト、ブゾーニの流派に着目し、その3人に繋がる演奏家による録音資料を幅広く分析し、nMDSの手法を用いて、流派間で局所的な速度変化あるいは音量変化が類似しているかを検証する。一方で、直接の師弟関係にある演奏者の録音資料についても、nMDSを用いて比較分析する。そして、局所的な速度変化および音量変化、奏法のうち、直接の師弟間で継承されやすい要素を特定する。

 このように、時代ごとの演奏様式の変化および流派間での奏法の継承について、様々な時代の作曲家による多くの作品の録音資料を、多方面から客観的に分析することで、演奏がどのように形成されてゆくのかを明らかにすることが、本研究の目的である。

2022年度の目標

 バッハ鍵盤作品の「実用版」楽譜と録音資料を分析対象とし、1810年代から2010年代までの約200年間に、演奏様式あるいは演奏のあり方が、どのように変遷していったのか明らかにする。パフォーマンス・カルチャーの文脈において、「楽譜」とは音楽学が伝統的に理解してきた(あるいは誤解してきた)書かれたテクストというよりも、演劇の台本に近いといえる[Cook 2014]。弁論の際のメモ書きのようなものだった「楽譜」が徐々に精緻化し、20世紀初頭には「原典版」イデオロギーが強まっていった。この楽譜をテクストとする考え方は、実は伝統的なものではなく、20世紀になってからの特徴といえる。音楽を「パフォーマンス」と捉えることで、初めて「楽譜」の真の意味を捉えることができるといえる。

 「実用版」楽譜は作曲家のオリジナルに余計なものが恣意的に付け加えられたものという捉え方自体が、「原典版」イデオロギー的な固定観念に由来する歪みの産物といえる。バッハ鍵盤作品の20世紀初頭までの「実用版」楽譜の記載内容を検証し、「実用版」楽譜に記載されてきた修辞学的な演奏観が、楽譜のあり方の変化とともにどのように変化するのか、録音資料を定量的に分析することで明らかにする。そこから浮かび上がるのは、楽譜の役割やあり方が、歴史の流れの中で換骨奪胎されながら、演奏様式が少しずつ変化してきたという事実である。このように、楽譜のあり方と演奏様式の変化を検証することで、楽譜とパフォーマンスの関係性を再検討する。

 また「実用版」楽譜において継承されてきた奏法が、録音資料においても流派間で継承されてきているのか明らかにする。それにより、奏法の継承におけるメディアの役割についても検証する。

この研究に関連する自身の業績一覧
【1】論文
  • Mai Takahashi, Michikazu Kobayashi, Ikki Ohmukai.'Spectral analysis for identifying octave playing in piano works', The 11th Conference of Japanese Association for Digital Humanities, On line, September, 2021. p.72-75. (査読あり・筆頭著者)
  • 高橋舞「録音分析に基づく演奏様式の検証~バッハ鍵盤作品における『修辞学的演奏様式』の変遷~」2022年6月『文化資源学』(査読あり)
  • Mai Takahashi, Michikazu Kobayashi, Ikki Ohmukai.'Characterizing playing style with speed deviation', Digital Humanities 2022 Conference Abstracts 692-695(査読あり・筆頭著者)
【2】国際学会における発表
  • Mai Takahashi, Michikazu Kobayashi, Ikki Ohmukai.'Performance-style visualization with analyses of recorded music', International Musicological Society East Asia Regional Association, On line, October, 2021. (査読あり・口頭発表)
【3】国内学会における発表
  • 高橋舞「『ピアノによるバッハ像』の生成と展開 ―『実用版楽譜』における演奏表現の分析―」、第70回日本音楽学会、大阪大学、2019年11月。(査読あり・口頭発表)
  • 高橋舞「『実用版』楽譜がもつ演奏研究媒体としての資料的価値」、文化資源学会第36回研究会、オンライン、2021年3月。(査読あり・口頭発表)
  • 高橋舞「速度偏差およびスペクトル分析に基づくバッハの演奏様式検証 ―《半音階的幻想曲とフーガ》における『修辞学的演奏』の残存―」、第72回日本音楽学会、オンライン、2021年11月発表予定。(査読あり・口頭発表)
  • 高橋舞「解釈を記録するメディアとしての実用版楽譜および録音:師弟間における演奏解釈の継承」第73回日本音楽学会、オンライン、2022年11月発表。(査読あり・口頭発表)
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