ピティナ音楽研究所

2022年度 研究の展望(上田泰史氏)

研究テーマ
「スクワール・ドルレアン」における芸術家の居住空間―ショパン、ヅィメルマンらのアパートに関する調査
概要

 ジョゼフ・ヅィメルマン(1785~1853)は、パリ国立音楽院でピアノ教授を務めた音楽家で、作曲家、ならびにパリ随一のピアノ・作曲指導者としても活躍しました。あまり知られていない音楽家ですが、それは音楽指導者や演奏家が音楽史の表舞台から締め出されてきたことにも起因しているでしょう。パリ留学当時、筆者はパリ第四大学で提出した博士論文『ジョゼフ・ヅィメルマン(1785~1853)――人・音楽家・教育者』(2016年、記述言語は仏語)で、ヅィメルマンと彼をめぐる文化的状況について研究しました。  

 教育者としてのヅィメルマンは、アルカン兄弟やアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルアンリ・ラヴィーナ、セザール・フランクら1810年代・20年代に生まれたフランスの音楽家の育成で大きな成果を挙げました。コスモポリタンな都市パリの特性を活かし、ヨーロッパ的な視野でピアノ演奏技法を集成した教本『ピアニスト兼作曲家の百科事典』(1840)は、クララ・ヴィーク、ロベルト・シューマンやフレデリック・ショパン、フランツ・リストを初めとする外国のピアノ作曲家たちとの交流の成果として注目されます。さらに彼が自宅で開いたサロンはパリの芸術界の名士を集め、国内外の音楽家がパリ・デビューする登竜門となっていました。社会活動では、テロール男爵が創立した音楽芸術家協会で芸術家の社会的地位保全に尽力するなどしましたが、彼の多面的な活動を総括する研究はこれまでに存在しませんでした。それをまとめたのが上記の博士論文で、現在、出版にむけて編集中です。

 さて、PRIMでは、2016年から6年を経て新たに生じた個別の論点を採り上げて、研究を行います。そこで対象とするのが、ヅィメルマンが1832年頃から1853年まで居住した「スクワール・ドルレアン」と呼ばれた新興集合住宅です。なぜこのような住宅がピアノ音楽研究と関係するのか、と疑問に思われるかもしれません。実はこの住宅は、七月王政時代(1830~1848)のパリの芸術交流の一大拠点でした。そこには、ヅィメルマンのほか、フレデリック・ショパン、ジョルジュ・サンド、アレクサンドル・デュマ、デュビュフ父子といった芸術家や文筆家、画家たちの世帯を擁し、活発な交流が行われていました。それゆえ、地図上では小さな点にすぎませんが、七月王政時代にこの住宅で生じた出来事や環境が持つ文化的な意味は決して小さくはありません。この場所のミクロストリア(小さな歴史)を記述することは、この時代のパリの主要な芸術家同士の関係の細密な描写を可能にし、この時代のパリにおけるピアノとピアノ音楽家・教育者をめぐるいっそう解像度の高い芸術的生活のビジョンを再構築することに繋がるのです。

2022年度の目標

 本研究の目的は、入居者の居住場所を空間的に特定することです。居住者・居住棟のあらましについては、単著(上田 2018)でも紹介していますが、ジャン・ジュードによる最近の研究では、従来のショパンのスクワール・ドルレアンのアパートの位置について、新説が提示されています(Jude 2022)。この研究では、種々の状況証拠とその解釈※1から、ショパンがスクワール・ドルレアン内の「9棟」に住んでいたとする説に異を唱え、実際に住んでいたのは「3棟」の「9号」アパートだったと結論づけています。

左図:現在スクワール・ドルレアンの壁面プレートに記されている棟番号。フレデリック・ショパン(9棟)およびジョルジュ・サンド(5棟)の居住記念プレートが、当該番号の建物に掲げられています(cf. 中野真帆子『パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019』 第7章-1 スクワール・ドルレアン 9番地)。右図:J. ジュードによる説明を適用し再構成した棟番号を示しています。(図の上が北)

 その理由として示されたのは、1845年時点で「9棟」にあった7部屋全てが別の住人で塞がっていた、ゆえに1842年から1849年までショパンが住むことは不可能だったという主張です。この主張は、19世紀半ばに建築家が編纂したスクワール・ドルレアンに関する文献(Gilbert, Vaudoyer et Deschamps 1854)に基づいていますが、列挙される住人の入居時期については記述があるものの、ショパンがスクワール・ドルレアンに移住した1842年の時点で、9棟の全員がそこに居住し続けていたのかまでは検証されていません。そして実際、この主張と食い違う史料が存在します。1846年に新聞『コルセール・サタン』の文芸欄に掲載された当時の報告(Gosse 1846)によると、9棟にJ. ジュードが挙げたのとは別の面々が居住していたことになっています。そればかりか、1842年に、サンドはショパンが「レッスンをしたあと、中庭を横切って[サンドたちのところに]夕食に戻ってくる」だけでよいアパートを見つけた、と友人に書き送っています。5棟に住んでいたサンドの記述は、ショパンが向かいの8棟か9棟に住んでいなければ理解できません(Jude 2022: 368)。

 ショパン以外の音楽家、たとえばジョゼフ・ヅィメルマン(7棟)やシャルル=ヴァラタン・アルカン(10棟)についても、J. ジュードの説は再検討に値します。例えば、J. ジュードはアルカンの書簡等に記された10という数字が、ショパンの場合と同様、棟番号ではなくアパートの番号と考えています。しかし、『コルセール・サタン』の記事からは、「10」番には複数の部屋があったことが分かるので、棟番号の可能性は否定できません。さらに、パリ市古文書館が公開している19世紀末の地図(Archives de Paris, PP/11948/D)では、上図左の地図の「1棟」が「10棟」と記されており※2、10棟が存在した可能性は濃厚です。また、ヅィメルマンの「7棟」をめぐっても、J. ジュードは北の棟の西側2階のアパートとしていますが、「7棟」は西の棟であったことが同じ地図から確認できます。
 2022・23年度※3はこれらの矛盾点を洗い出し、棟番号と位置の特定を試みます。

  1. J. ジュードが依拠する1854年に刊行されたスクワール・ドルレアンに関する(Gilbert, Vaudoyer et Deschamps 1854)文献を入手・精読し、9棟の居住者についての情報を正確に把握します。
  2. 『パリ主要居住者25000人年鑑』※4から、スクワール・ドルレアンの住所をもつ住人を洗い出し、とりわけショパンが転居する1842年以降、「9」の番号を持つ住人をリスト化し、居住期間を可能な限り特定します。その上で、J. ジュードが挙げた9棟の住人および『コルセール・サタン』の記事に挙がっている「9棟」の住人と照合し、住人(とくにショパンの隣人で彫刻家のジャン=ピエール・ダンタン)についての関連史料も参照しつつ、J. ジュードの主張の妥当性を検証します。この作業によって、1842年の時点で、本当にショパンが「9棟」に入居する余地がなかったのか、当時の状況をより詳しく明らかにすることができます。
  3. 棟番号を特定する有力な手がかりとして、ヅィメルマンの遺産目録※5に記載された部屋の位置関係を示す記述から、スクワールにおけるヅィメルマンのアパートの位置を割り出し、「7棟」の位置を特定します。
引用文献
  • Gilbert, Vaudoyer et Deschamps, Avis de MM. Gilbert, Vaudoyer et Deschamps, sur la ventilation, par distinction d'origine, du prix d'adjudication d'une grande propriété sise à Paris, rue Saint-Lazare, Nos 34, 36 et 28, connue sous le nom de Square d'Orléans, Paris, A. Guyot et Scribe, 1854.
  • Gosse, I. S. de, « Une peuplade d'artistes », Le Corsaire-Satan, 24 e année, nos 10979 ; 10992 ; 10995, 19 avr. ; 5 et 8 mai 1846, n. p.
  • Guyot, A. et Scribe (éd.), Almanach royal et national, Paris, chez A. Guyot et Scribe, 1831-1847.
  • Jude, Jean, Camille Pleyel - Frédéric Chopin : les talents réunis, s.l., Jean Jude, 2022.
  • 上田泰史『パリのサロンと音楽家たち――19世紀の社交界への誘い』東京:カワイ出版、2018。
この研究に関連する自身の業績一覧
  • 上田泰史『パリのサロンと音楽家たち――19世紀の社交界への誘い』東京:カワイ出版、2018。
  • 上田泰史「ヌーヴェル・アテネにおける『趣味の殿堂』 : 音楽雑誌を通して見るP. J. G. ヅィメルマンの芸術サロン(1832-1844)」『研究紀要』、国立音楽大学、第52巻, 1-12頁。
注釈
  • 例えば、「9棟」ショパンの隣人だった彫刻家のジャン=ピエール・ダンタンの居住状況を検証して、ショパンが「3棟」に居住したという結論を導いています。
  • この地図では1棟は9棟の東向かいの棟の一部ということになっています。
  • 筆者は9月から研究員に就任したので、年度を跨いで研究に取り組みます。
  • Almanach des 25000 adresses des principaux habitants de Paris. 1835年・1846年を初めとして、入手可能な年巻から調査を進めます。
  • Archives nationales de France, MC/ET/LXVI 1304. 遺産目録には、それぞれの窓がどこに面していたかなど、部屋ごとに位置特定に資する記述があります。
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