ピティナ音楽研究所

チェルニーに学ぶ!古典・ロマン派時代のピアノ即興演奏 第4回

チェルニーに学ぶ!古典・ロマン派時代のピアノ即興演奏
~創造の楽しさを日々の練習に~
第4回チェルニーと即興演奏〜『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き』を中心に①

みなさま。こんにちは。

第一回から第三回にかけて、ピアノなどの鍵盤楽器による即興演奏とその歴史について、簡単にご紹介してきました。第四回からは、いよいよこのコラムの主人公、カール・チェルニー(1791-1857)と即興演奏について見てゆこうと思います。

チェルニーの人生と作品総論などの基礎情報は、ピアノ曲事典の「チェルニー」の頁を是非ご覧いただきたいのですが、ここでは彼のピアノ教則本『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き Systematische Anleitung zum Fantasieren auf dem Pianoforte Op.200』(n.d. [1829])についてご紹介してゆきます。

『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き』は、1820年代の後半に出版されたと考えられているチェルニーのピアノ教則本です。「考えられている」というのは、現在残されている当時の刊本※注釈1に出版年の表示がなく、出版年の根拠とされているのが音楽出版業者フリードリヒ・ホフマイスターの『音楽文芸月報 Musikalisch-literarischer Monatsbericht』の1829年の記載のみ、だからです。※注釈2間接的な出版の記録しか残されておらず、正確な初版年などは不明な状態ですが、少なくとも1820年代の後半には出版されたと考えられており、その頃チェルニーは30代の後半、多くの生徒を抱えレッスンに作曲にと大忙しの日々を送っている只中でした。

これは、後のコラムでご紹介してゆくチェルニーの即興演奏に関する教科書「シリーズ」の最初を飾るものであり、出版された通しの作品番号はキリ番の「200」でした。しかし、1983年に『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き』の英訳版を翻訳・出版したアリス・ミチェルは、この教科書はチェルニーの他のピアノ教則本に比べると特段低い扱いを受け、曰く「最低の知名度である」と指摘します。チェルニーは生前非常に数多くの練習曲集・手引書を世に出しましたが、現在有名なものはやはり「100番」「30番」「40番」「50番」に代表される「(即興演奏の技術ではなく)ピアノの演奏技術を向上させるための練習曲」であり、そもそも『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き』のような即興演奏のための手引書を刊行している事実はそれほど一般的ではありません。私自身、ピティナ音楽研究所でこうしたチェルニーの即興演奏の手引書を扱ってピアノによる即興演奏の過去と現在を考えたい、という話を周りにするとチェルニーがそのようなことをしていた事実に驚かれ、それゆえにより興味を持ってくださる方が多いように感じます。ですので、このエッセイではまず『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き』にどのようなことが書かれているのかを確認し、そしてそれを現代のピアノ実践にどう活かしてゆけるのかを考察してゆこうと思います。

楽譜や音楽書籍が印刷・出版されるようになった16世紀以降の演奏教則本の伝統に漏れず、『ピアノで弾くファンタジーへの体系的手引き』も最初に序論 Einleutungが書かれています。伝統的に、序論はその本が書かれた目的やねらい(最終的に目指すべきところ)が述べられたり、その教則本の最も基本的かつ重要なアイデアが論述される重要なセクションとなります。本書の場合、序論は6つのパラグラフから構成されています。

執筆者による粗訳 パラグラフ1

演奏家が、楽器を使って創造力、インスピレーション、あるいは気分が呼び起こしたフレーズを思いついた瞬間に演奏する能力だけではなく、実際の作曲のような効果を聴衆に与えることができる様々なフレーズを組み合わせる能力を持ち合わせているのなら、それはいわゆるファンタジー、即興と呼ばれるものである。したがって、その才能と技術は演奏中に直前の特別な準備なしに咄嗟の思い付きで独自の、あるいは既存の楽句をある種の(新たな)楽曲として次々と繰り出してゆくことであり、それは書かれた楽曲よりも非常に自由な形式にもかかわらず、理解可能で面白いものであり続けるようなまとまりを生み出している。

菅沼のコメント:ここでは、即興演奏が作曲されたもの、すなわち紙の上で「書かれた楽曲」と対比されて定義されています。即興と作曲を二項対立として捉える考え方は、古くはチェルニーより400年ほど前に生きた音楽理論家・作曲家ヨハネス・ティンクトリスの有名な区分に遡ります。ここで重要 なのが、即興も作曲と同じような効果を与える、ということです。即興演奏が持つ力、そして美的な質を十分に保証する言及となっていますね。加えて、既存の楽句を使う、という文言も重要です。即興演奏は無から有を生み出すようなイメージが先行しがちですが、そうではなく、常に自分の中にある多くの旋律や和声の「引き出し」を開け、そこから紡ぎ出した音の連なりをどんどん繋げてゆきます。既存のものを使ってより面白いものを提示する、というのは西洋音楽における即興演奏の伝統の中でとても大事な側面でした。それでは、次のパラグラフを見てみましょう。

執筆者による粗訳 パラグラフ2

即興演奏の能力は様々な楽器である程度まで練習することができるが、ピアノフォルテはその完全性と多彩さにおいて唯一無二であり、いくつかの基本的なルールにより分けられた音楽芸術の一部門へと高められる。ゆえに、即興演奏を習得することは特別な義務であり、鍵盤のヴィルトゥオーゾの証である。

菅沼のコメント:ここでは、即興演奏はヴィルトゥオーゾの証(より正しいニュアンスとしては「ヴィルトゥオーゾの栄冠」と言っています!)と述べられています。特に鍵盤楽器が他の楽器よりも即興に相応しい、より良い即興演奏ができる、と述べるのは、やはり鍵盤楽器が一人で複数の声部を演奏できる楽器だからでしょう。即興演奏が鍵盤奏者のヴィルトゥオジティの証である、とする彼の姿勢は前回のエッセイでご紹介した16世紀のサンクタ・マリーアと同じですね。

執筆者による粗訳 パラグラフ3

即興演奏は聴き手にとっても魅力的であり、そこには作曲された作品(たとえそれがファンタジーと指定されていたとしても)にはない、アイデアの結びつきの自由さや気軽さ、演奏の即時性が感じられる。もし、よくできた作曲が、シンメトリーが支配的でなければならない高貴な建築物に例えられるなら、 よくできたファンタジー(=即興演奏)は美しい英国の庭に似ている。それは一見不規則に見えるが、驚くほど変化に富み、合理的で意味深く、計画通りに実行されている。

菅沼のコメント:作曲されたものは事前に準備されたものなので、即興演奏には作曲されたものにはない「その場で生み出される」自由さがあって魅力的である。チェルニーはここでそのように述べています。チェルニーが即興演奏を「英国の庭」になぞらえているのが非常に興味深いですね。ここで彼が言わんとする英国の庭とは、おそらく「イギリス式庭園」と呼ばれるものでしょう。これは、18世紀ごろから本格的に確立した庭園のスタイルで、風景の延長としての庭、自然の丘や池を庭に溶け込ませるという特徴があります。こうしたナチュラルな景観美を活かしたイギリス式の庭園は、ルネサンス的な幾何学的・人工的なヨーロッパの庭園スタイル(特にヴェルサイユ宮殿に代表されるフランス式庭園)と対比されるそうで、チェルニーはその対比をそのまま即興演奏(イギリス式庭園)と作曲(フランス式庭園)になぞらえています。また、ここで述べられている即興演奏とイギリス式庭園とのアナロジーは、「自然の模倣」というロマン主義の時代には影を潜めた伝統的なアイデアとの連関も感じられます。芸術を「模倣の技術」とする自然模倣説は、西洋ではアリストテレスの「芸術は自然を模倣する」という有名な言葉が示すとおり古代ギリシャに根差した太い伝統でした。しかし、チェルニーの生きた19世紀になると、芸術は超越・崇高といったキーワードと結びつき、自然・現実をも凌駕するというドイツ・ロマン主義的な考え方が広がりました。その中で「書かれた音楽作品」が芸術的に高い価値を持つものとして評価されるようになり(現在の「名曲」というキーワードの誕生のきっかけの一つに、こうした歴史的な経緯があります)、一方で即興演奏は次第にその重要性を失ってゆきます。チェルニーが、即興演奏をそのような伝統的なものとして考えていたことは、そうした芸術観の過渡期に生きた人間の音楽の捉え方に迫るものとして興味深いですね。

それでは、次回のエッセイでは序論の後半部分を見てゆきたいと思います。



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