チェルニーに学ぶ!第16回 夏休み特別番外編②(研究紹介)
~創造の楽しさを日々の練習に~
みなさま。こんにちは。
夏休み特別番外編と題している研究のご紹介エッセイ、後半を書いている間に季節は進み、「この気候があと二ヶ月くらい続いて欲しい」と思うような過ごしやすい陽気になりました(夏が終わりました)。
夏休み特別番外編、前半のエッセイは今から400年前ごろのローマにおけるディミニューション実践を、特にフランチェスコ・セヴェーリの曲集に焦点を当ててご紹介しました。前半で大事なことを言い忘れていたのですが、セヴェーリはヴァチカンの聖歌隊で活動した最初期のカストラートの一人だったそうです。変声前に去勢手術を行いソプラノ音域の声を残すカストラートは、16世紀の中頃から実際に聖歌隊などで歌われる記録が残され始めるそうですが、まさにローマはそうした最初期の記録が残る場所の一つでした。
話を戻しましょう。後半のエッセイでは、そうした彼らローマの歌手たちがどのようにディミニューションを習得したか、その一端を現在分かっている資料から少しご紹介していきたいと思います。
ディミニューションは、主に楽譜、つまり、特に16〜17世紀にかけて多数出版された手引書から、過去の実践がどのようなものだったか考えられることが多いですが、ローマの様々な資料を掘り返していると、それ以外にも色んな場所でディミニューションに関する実践の痕跡を見つけることができます。今日は、そのうち2つをご紹介したいと思います。
① 少年聖歌隊の教育カリキュラムから
日本では合唱コンクールの課題曲になるなど現在でも広く演奏されているトマス・ルイス・デ・ビクトリアや、去年から今年にかけてアニバーサリーだったジャコモ・カリッシミなど、1600年前後の(ローマ)音楽史の重要人物たちの多くが楽長(音楽監督)を務めたローマのイエズス会学院コレギウム・ゲルマニクム・エ・ウンガリクム注釈1には、同地で教鞭を取った人間たちによる日記や記録が多く残されており、そこから神学校でどのような音楽教育が行われていたかを知ることができます。そこでは、プッティと呼ばれる変声前の少年聖歌隊への特別な訓練——これは、おそらく能力の高い聖歌隊に向けられた課外授業のようなものだったと考えられますが——として、夕べの祈りのあとや休日などに予定を合わせて、パッサッジ(イタリア語でディミニューションのこと)の練習を行なった/学院の葡萄畑では詩篇やパッサッジなどの訓練が行われた、という記録が残されています。この神学校では、エッセイの前半で扱ったセヴェーリの歌の教師であったオッタヴィアーノ・カタラーノも教鞭を取っていました。
この神学校は、主にドイツ語圏からイエズス会での学びを受ける人間を受け入れる(あるいは、ドイツ語圏からローマに訪れるキリスト教関係者を受け入れる)役割を持っており、モーツァルトも父レオポルトに連れられて1770年に神学校を訪れて演奏会を開いた記録が残されています。その時にモーツァルトはシスティーナ礼拝堂でグレゴリオ・アレグリの《ミゼレーレ》という曲を聞き、一度聴いただけで曲を全て「完コピ」し門外不出の禁を破る、という天才神話を残しています。そうした天才神話により現在でも非常に有名な《ミゼレーレ》ですが、特にその高音を用いた華やかな装飾を施した音楽は、このエッセイでご紹介してきたローマの伝統的なディミニューション実践によるもので、アレグリの《ミゼレーレ》をご存知の方は「この話はあれに繋がるのか!/あの曲はこういうバックグラウンドがあるのか!」と思っていただければ幸いです(最も、ハイCが登場することで有名な現行の《ミゼレーレ》は数百年にわたる様々な勘違いなどによりある種「魔改造」されたものであり、オリジナルの楽曲とは似ても似つかないものなのですが…)。
- 演奏①:アレグリ《ミゼレーレ》現行のハイC版
https://youtu.be/H3v9unphfi0?si=acHS9bzVr4GvpCqR - 演奏②:アレグリ《ミゼレーレ》をシスティーナ礼拝堂聖歌隊が原典に最も近いとされる当時(17世紀前半)の一次資料から行った演奏
https://youtu.be/6t5fEnPtYzs?si=wNHg3pFxx22ms2Iz - 演奏③:アレグリ《ミゼレーレ》を当時(17世紀前半)の一次資料や当時のディミニューション実践に即して「原点回帰した」版
https://youtu.be/4ZkVAJzPJq0?si=0x6mChwS19mnkIIX
② 即興対位法の教則本から
①の例からは、少年聖歌隊が日々の訓練でディミニューションを学んでいたことが分かりますが、そもそも基礎的な音楽理論、特に対位法の学びの中でもそうしたディミニューションが謳われていたことも重要なポイントです。
音と音との組み合わせ方を学ぶ、近代以前の西洋音楽における最も重要な作曲の教程である対位法に関しては、現在と昔との教育のあり方の違いとして、その即興的な要素が着目されています。現在の対位法教育は、楽譜の上にパズルのように音を並べていき、五線紙と睨めっこしてウンウンと唸りながら考える座学として行われ、音大では基礎的な楽典→和声→対位法という順番で習うこともあり、若干のハードルの高さを感じるものになっています。しかし、今お話している400年前にタイムスリップすると、対位法はむしろ日常生活のツールとして教えられていました。聖歌隊員は日々の礼拝の中で、本来単旋律(一つのメロディ)で歌われるグレゴリオ聖歌を即興的に2声、3声、4声などに増やして歌うことを行なっており、そうした毎日の「お勤め」の中で実践するスキルとして対位法が教えられていたのです。16世紀〜18世紀ごろの特にラテン圏での対位法教程には「頭で歌う alla mente」という文言が頻繁に登場しますが、これはすなわち楽譜を用いず即興的に対位法を歌う実践に他なりません。これは、近代以後に制度化された音楽院などでの教育カリキュラム——すなわち、私たちが実践しているもの——における楽譜上で考える対位法とは異なるものとして、現在では「即興対位法 contrapunto alla mente」と呼ばれ欧米のいくつかの教育機関でカリキュラム化が進んでいます注釈2。そして、その即興対位法の実践の中で、ディミニューションが行われていたことを示す例がローマにあるのです。
黒人系の出自を持つことで、特に2020年代以後のブラック・ライブス・マター運動の中で脚光を浴びた16世紀ポルトガル出身の作曲家、ヴィセンテ・ルジターノ(c. 1520 – c. 1561)という人物がいます。彼は西洋音楽におけるマイノリティ(すなわち、白人男性以外)にもちゃんと光を当てていく、という近年のトレンドの中で「史上最初に黒人として自作品の曲集を出版した人物」として注目され演奏される機会もここ数年で急増しましたが、一部の研究者の間で彼は即興対位法に関する重要な教本を残したことで第二次世界大戦後より一貫して有名人でした(現在のルジターノへのスポットライトでは、そうした文脈が紹介されることがなくちょっと悲しい…歴史的な重要性が紹介されず人種によるラベリングだけで有名人扱いになっていることに納得がいかない今日この頃です)。
現在パリ国立図書館に所蔵されている、彼が1550年頃にローマで書き残したとされる手稿には、様々な即興対位法に関する譜例が100近く掲載されています。その中には、下記譜例のようなクローマ(8分音符)を用いた長いディミニューション音型が書かれたものもあります。16世紀の対位法教程は基本的に「点対点」対位法と呼ばれる、一音に対し一音を組み合わせる最も単純なものからその教程をスタートすることがスタンダードであり、次第に一音に対し二音、四音と組み合わせを複雑にしていくのですが、ルジターノのように一音に対し16音もの音を組み合わせる即興例は当時でもなかなか見つけることはできないでしょう。
このように、対位法の訓練の中にディミニューションを盛り込んでいる例は他にも見られます。例えば、16世紀ローマ音楽の代表人物、ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナの弟子であったジョヴァンニ・マリアとジョヴァンニ・ベルナルディーノ・ナニーノ兄弟のものとされる対位法教程の手稿もそのひとつです。この中には「定旋律上に置くことができるパッサッジ」の譜例として、最大47音もの音の連なりが掲載されています。
ナポリの音楽理論家シピオーネ・チェッレートは、当時のローマではこうした即興対位法が非常に盛んに行われていたことを報告しています。エッセイの前半で16世紀ローマの音楽は対抗宗教改革の影響で質素・慎ましやかな音楽様式が好まれたと歴史では書かれがち、という話をしましたが、こうしたディミニューションの痕跡からは、そんなローマのイメージを覆すような、いかに華やかな音楽がそこで演奏されていたかが窺い知れます。実は、こうした技巧的なディミニューション実践がローマで盛んに行われたのも、高度な対位法書法が発展したポリフォニー様式が問題視されローマの音楽実践がより即興的なものへと向かったからであり、そういう意味ではローマのディミニューション実践もまた対抗宗教改革の産物である、といえるのかもしれません。現行の西洋音楽史は「大作曲家」による「名曲」により書き記されていく要素が多分にありますが、紙に書き残された作品を主体とする音楽史ではこうした日々の即興演奏として消えていった音楽がそこから排除される傾向にあります。私がチェルニーを含めて過去の即興演奏の痕跡を研究対象とするモチベーションは(もちろん過去の演奏家たちがいかにかっこいい演奏をしていたかが知りたい、というのもありますが)即興演奏を通して音楽史のイメージが刷新できる、ひいては私たちの現在の音楽文化における過去の音楽の見方やお付き合いの仕方を考え直すことができることにあります。
- 現在の神学校のHP:https://www.cgu.it
- 菅沼が2023年まで留学していたスイス、バーゼル・スコラ・カントルムでは併設の音楽学校で子どもたちに即興対位法を含めた当時の少年聖歌隊の音楽教育カリキュラムを体験してもらうという狂気の(しかし、意義深い)企画があり、その発表会の様子はダイジェストで動画が公開されています(途中で先生と子供達が3声のカノンの即興などをやっており凄まじいです):https://youtu.be/iS0nyf2XZkA?si=D7FInKC1QlKc6LJb
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